1549 | 天文18年 | ザビエルが鹿児島に上陸 |
1551 | 天文20年 | 大友義鎮が府内にザビエルを招く |
1554 | 天文23年 | 朽網氏がキリスト教に深い理解を示し自らをルカスと名乗る。 家族、家臣団の260名受洗。 ルカスが直入に豊後初の教会を建設。中にはマリア像が置かれる。 |
1555 | 天文24年 | 朽網地方は日本八大布教地となるまでにキリシタンが急増する。 |
1556 | 弘治2年 | 上長コスメデトルレスが朽網にガスパル・ヴィレラ神父と通訳ジョアン・フェルナンデスを派遣。 |
1558 | 弘治4年 | ガゴ神父、アルメイダ修道士(医師)が府内から朽網に入り、20年以上も病に苦しんでいた者を治したことにより、住民はこれを神の奇跡と讃え、一層キリシタンの信仰が深まる。 |
1561 | 永禄4年 | フェルナンデス神父が朽網に1ケ月ほど滞在、朽網地方に住むキリシタンの巡回訪問をくまなく行う。 アルメイダが熊本の川尻に行く途中に朽網に立ち寄り、教会の建物の素晴らしさと地元キリシタンの歓迎ぶりを賞賛したことを耶蘇会士日本通信で本国に報告する。 |
1562 | 永禄5年 | トルレス、フェルナンデス等が長崎の横瀬浦に行く途中に朽網に立ち寄る。 ガゴ神父がこの年の12月10日付「イエズス会日本通信」でルカスのことを本国国王に伝える。 |
1564 | 永禄7年 | フロイス、アルメイダ両名が島原から府内に行く途中に朽網に立ち寄る。 |
1565 | 永禄8年 | カブラル、ヴァス両神父が朽網に1泊する。 |
1566 | 永禄9年 | 畿内にいたガスパル・ヴィレラ神父が豊後に戻り朽網を巡回。 秋にはベルショール・ガスパル神父(府内コレジオ院長)が朽網を訪問。40人が新たに受洗。 |
1567 | 永禄10年 | 志賀親次誕生 |
1569 | 永禄12年 | 豊後で100名以上が受洗する。朽網ではフィゲイレド神父により、一武士の家人12~15人が新たに受洗した。 |
1574 | 天正元年 | カブラル神父とトルレス修道士が朽網を訪れる。 |
1578 | 天正6年 | 大友宗麟がカブラル神父により受洗。ドン・フランシスコを名乗る。朽網では、フロイス神父と日本人修道士ロケが訪問し、新たに66人が受洗。 |
1579 | 天正7年 | 大友氏が日向で敗退したことにより豊後は政情不穏となり、2人の修道士が府内から祭服、祭具類を持ち寄り朽網に長期滞在する。志賀親次、イザベルを通じてキリスト教に影響を受け始める。 |
1584 | 天正12年 | 志賀親次(17歳)が臼杵でペロ・ゴメスより洗礼を受けドン・パウロの教名を受ける。臼杵から竹田に宣教師ペトロ・ラモン来る。この時に岡領内で6,000人が受洗し、領内の信者数は15,000人となり、豊後国内で最多となる。 トルレス神父(朽網を訪れた最後の神父)が朽網に立ち寄りルカスと会う。 |
1585 | 天正13年 | 中川秀政が大阪の聖堂で黒田官兵衛、蒲生氏郷とともに受洗。(洗礼名はヤコブ?) 天正8年からこの年まで豊後ではINRIの文字が入った十字架が80基建立される。 |
1586 | 天正14年 | 島津軍の豊後侵攻始まる。 志賀親次(19歳)島津軍35,000人を1,000人で守る。朝地町にキリシタン住院(レジセンシア)建設。 |
1587 | 天正15年 | 朽網宗策が大友義統に追われ切腹。 志賀親次は屋根瓦全体に十字架を入れる。 この年の豊後国内信者数は累計で30,000人とも50,000人とも言われる。 朽網地方については従前と変わらず信者数は300人であった。 |
1589 | 天正17年 | イエズス会が布教体制の整備を図るため豊後に司祭2名、修道士1名を置く。 |
1592 | 文禄元年 | 文禄の役 志賀親次も大友吉統と共に朝鮮に出兵。 |
1593 | 文禄2年 | 大友吉統が朝鮮の役の失態を理由に国除、これに伴い志賀親次も岡城を去る。 豊後国内で21の礼拝堂と6戸の宣教師住宅が破壊される。 |
1594 | 文禄3年 | 中川秀成公播州三木より岡に入封。 朝地町にキリシタン聖堂の建設と布教を許可する。 宣教師が本国に宛てた報告書により、竹田がTaquetaとしてヨーロッパに知られる。 |
1596 | 慶長元年 | 秀吉の禁教令 サン・フェリペ号事件 長崎で26聖人殉教 |
1600 | 慶長5年 | リーフデ号臼杵に漂着 日本全体で30万人の信者数となる。豊後国内の信者が1,500人に減少。 |
1604 | 慶長9年 | 一時は減少した豊後国内の信者数がこの頃より再び急増する。 |
1608 | 慶長13年 | メスキータ神父が長崎に聖ヤコブに捧げるための教会である「サンチャゴ病院付属教会」を建設。 |
1612 | 慶長17年 | 家康の禁教令(天領) サンチャゴの鐘鋳造。サンチャゴ病院付属教会」に鐘が寄進される。秀成公没する。岡本大八事件起こる。 |
1613 | 慶長18年 | イエズス会は豊後国内に司祭3名、修道士2名を置く。 |
1614 | 慶長19年 | 全国禁教令 2月下旬に6名の修道士が臼杵から玉来に来て寺(真正寺?)に宿泊。多数の者が訪ねてくる。宣教師は迫害から逃れるため長崎に退避。 木原村で三人のキリシタンを処刑。 |
1616 | 元和2年 | 徳川秀忠の二港制限令 家康死去。 豊臣に加担したキリシタン大名の残党である明石狩り(明石内記)始まる。 |
1617 | 元和3年 | この年、日本国内で101人の宣教師が確認される。 殿町の洞窟礼拝堂が掘られたと考えられる。 |
1619 | 元和5年 | 岡藩内で弾圧開始、役人2人に各村々のキリシタン詮索をさせる。 宇目町でルイサ死去(岡藩士 渡辺興吉郎の娘 日本名はラン) |
1620 | 元和6年 | 岡藩でキリシタンの迫害が始まる。 長崎でサンチャゴ病院などキリスト教関係施設の取り壊し始まる。 久盛公、岡藩でのキリシタン排除を決定。ブルドリノ神父、家老古田重治氏(ヨハネ・ディダーゴ)宅に身を寄せた後、竹田を去り天草から仙台へ移る。 |
1622 | 元和8年 | ナバロ神父、竹田を出た後、長崎で殉教(処刑)。 |
1626 | 寛永3年 | 長崎で踏絵始まる。この年を最後に豊後からすべての宣教師が去る。 同時に宣教師がいない中でキリシタンは独自の信仰を始める。 |
1628 | 寛永5年 | 岡藩の信者28名が長崎に送られる。 |
1632 | 寛永9年 | 岡藩に切支丹牢屋敷建設。 |
1633 | 寛永10年 | 豊後国内で新たに2~3,000人が受洗。 寺請証文の提出が義務付けられる。 ブルドリノが仙台で殉教(病死)。岡藩は本格的な潜伏キリシタンの時代へと移行。 |
1637 | 寛永14年 | 幕府の鎖国完成。島原の乱勃発。 |
1648 | 慶安元年 | 竹田市山川「大安寺」旦那の伊三郎一家5人が捕えられ長崎に送られる。 |
1654 | 承応5年 | 久清公が藩内にキリスト教の禁令を通達するとともに16箇所に制札を立てる。 |
1656 | 明暦2年 | 横平の松右衛門、辻村の久左衛門が捕らえられ処刑される。 |
1659 | 万治2年 | キリシタンの仏教への転宗である豊後崩れ始まる。 |
1660 | 万治3年 | 長崎より30年遅れて岡藩で踏絵始まる。入田長小野村の作右衛門ほか3家族の27人が鏡処刑場で火あぶりとなる。 全国的に宗門人別改帳の作成始まる。 |
1661 | 万治4年 | 幕府より毎月宗門改めを行うように通達がある。直入社家の金右衛門が鏡処刑場で火あぶりとなる。 |
1664 | 寛文4年 | 19ケ条の覚書を定め、藩士以下全領民を対象に宗門改めの実施を決定する。 荻恵良原1名、宮園村2名の信者が捕縛され長崎に送られる。 |
1665 | 寛文5年 | 岡藩切支丹奉行2名を任命。 |
1666 | 寛文6年 | 田町の喜助が捕縛され牢屋内で自害。 |
1668 | 寛文8年 | 岡藩では、この年の前後に最も厳しい弾圧が行われる。 |
1671 | 寛文11年 | 領内から徴収した切支丹仏数十体を長崎に送り鋳潰す。岡藩茶頭の宗竹が切支丹にて発覚を恐れ家族で逃亡。河内谷の仲間専助の下女が捕縛され獄門となる。 |
1672 | 寛文12年 | 岡藩切支丹拷問目付として三人を任命。鏡処刑場で頻繁に処刑が始まる。 |
1678 | 延宝6年 | 田井の武次郎が捕縛され長崎に送られる。 |
1679 | 延宝7年 | 菅如閑一族が捕縛され斬首となる。 |
1681 | 天和元年 | 領内98箇所に切支丹制札立てる。4名が牢から脱走するが捕縛され磔となる。 |
1682 | 天和2年 | 1名が磔、岡藩士1名が鏡処刑場で火炙りとなる。 |
1683 | 天和3年 | 表面上は、この年にほぼキリシタン壊滅。江戸の宗旨奉行に藩内の宗門帳を持参提出。 |
1685 | 貞享2年 | 入田太田村で13名が捕縛され、うち2名だけが長崎に送られる。 |
1688 | 元禄元年 | 岡藩宗門改めの結果、6,229人が類族(信者)と記載されている。 |
1691 | 元禄4年 | 清田村、中尾村で2名が捕縛され斬首となる。 |
1694 | 元禄7年 | 1名捕縛され長崎に送られる。 |
1735 | 享保20年 | 幕府から宗門檀那請合之掟が出される。 |
1738 | 元文3年 | 竹田市古町垂水屋平兵衛宅で地下礼拝堂の存在が発覚。隠れキリシタンとして長崎奉行所に連行される。久住峰越村の金之丞が捕縛され拷問の末に絶命。 |
1746 | 延享3年 | 玉来で目明しの藤七貞助が類族として捕縛され他藩に追放される。 |
1776 | 安永元年 | 直入町社家でキリシタン墓発見。キリシタン墓の没年月日から推測すると、この頃まで朽網に隠れキリシタンが存在したと考えられる。 |
1814 | 天保12年 | 岡藩内邪宗門取締実施。岡藩踏絵紀行を著す。 |
1871 | 明治4年 | 廃藩置県 岡城解体。 |
1872 | 明治5年 | 中川神社が拝田原に遷され、サンチャゴの鐘も運び出される。 |
1874 | 明治6年 | 明治政府がキリシタンの取締りを廃止。隠れキリシタンの時代の終焉。 |
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