朽網にはINRI石碑と同じ形をした石製T十字がもう一つ存在します。ただし、こちらにはINRIの文字がありません。また、残欠というのは、本来、このT十字が信仰の対象ではなく、路傍の道標的な役目を持っていたものが、何らかの理由で欠損してしまい、現在は部分的にしか残っていないためです。この残欠が、道標的なものだったとして、それがどこに行く目印であったのかは不明です。考えられるのは、長崎へのキリシタンロード、キリシタン集団墓地、教会ではなかったでしょうか。このような道標として用いられた石製T十字は、きわめて珍しく、全国でも竹田市でしか見ることができません。
(現物は竹田市立歴史資料館蔵)
男女一対で鳥の形をした石製の山の神で、大きい方が女神、小さい方が男神です。隠れキリシタン研究家によると、一つ目で目が丸いのは○=マリアになぞらえたという説があります。両方とも肩から大きな羽根が生えており、また、ザビエル肖像画のように手足を×に組んでいるのも特徴的で、×はアンデレ十字だという研究者もいます。大阪府茨木市で発見された天使讃仰図とそっくりです。全国に山の神と名が付くものは他にもありますが、このように鳥の形をして羽根が生えたものは竹田市にしかありません。地元の伝説以外にキリシタンとの関連を決定付ける史料がないためにこれをキリシタン遺物であると断言できませんが、不思議な石像です。直入町内には、これ以外にも数体の同じ形をした山の神が残っています。
また、面白いことに、この山の神の祭礼日はクリスマスに近い12月20日頃で、その時は誰も山に入ってはいけないとされていたそうです。
(個人宅所蔵)
朽網最大のキリシタン集団墓地のそばに小さな稲荷の祠があり、そこに木製の箱に収められた顔の無い木製坐像があります。箱には筆で生月神社と書かれています。おそらく長崎県平戸の生月島のことでしょうが、いつ、どのようなルートで朽網に持ち込まれたのかわかりません。考えられるとすれば、朽網はキリシタンロードでしたので、長崎と府内を行き来する宣教師が、破壊を免れるために持ち込んだのでしょう。頭の被り物に十字が彫られています。顔が無いのは。キリスト教で偶像崇拝が禁じられていたからではないかとも言われています。
(個人宅所蔵)
この石像が聖ヤコブであることを証明する史料は残念ながら一切存在しない。それを聖ヤコブであると断定したのは、故久留米大学教授の竹村覚氏(昭和36年発行「キリシタン遺物の研究」開文社)である。その理由として、発見された場所が、もともとこの石像を隠していたと言われる岡城西の丸にあった不浄蔵の真下に当たること、また、聖ヤコブがスペイン語でサンチャゴとなるため、サンチャゴの鐘とセットで隠されていたと考えられることからである。正式な成分分析を行った経緯はないが、「日本国内の石ではないのではないか」という研究者が多い。重量は30kg、頭囲は72cmある。鼻、耳が欠けているのと首が折れていることから、高い位置から投げ落とされたに違いないが、本来は最低でも胸像であったのかもしれない。もし、この石像が外国製であったなら、天正少年使節団が持ち帰ったのではないかとする仮説もある。真偽を確かめるためにも今後の成分分析が必要であるが、スペインにある聖ヤコブの墓「サンチャゴ・デ・コンポステーラ」の石像や聖画に描かれている聖ヤコブと比較した場合、顔が非常に似ていることは確かである。聖ヤコブはスペイン国の守護神であったため、戦国時代の武将である中川家もこの聖ヤコブにあやかって武運長久を祈った可能性も考えられる。実際に大阪摂津地方のキリシタン戦国武将の多くが、戦においての鬨の声を「サンチャゴ」、「イエズス」、「マリア」と叫んでいた史実は存在している。日本国内において、聖ヤコブと言われる石像は、ここ竹田にしかない。2015年に成分分析を行った結果、地中海沿岸の国で採れた砂岩であることが判明。また彫刻の芸術的な面からの分析では13世紀にヨーロッパで彫られた可能性がきわめて高いという結果だった。
(文化財指定なし 個人所有)
全国に自然洞窟を利用したキリシタンの礼拝堂は他にも存在する。しかし、人間がノミを使って人工的に岩を掘った洞窟礼拝堂は、全国でも竹田だけである。高さ3.5m、奥行き、幅ともに3mで天井はドーム状になっている。伝説では、祭壇にマリア像が置かれて、祭壇上部には十字が浮き彫りにされていたという。しかも、この洞窟には次のような珍しいストーリーがある。
(1)元和3年(1617年)に掘られたと考えられている(日本切支丹宗門史 中巻1617年発の書幹)が、禁教令が出された後にもかかわらず、あえて反発するように堂々と掘られていること、また、掘られてから約400年になろうとしており、長崎の教会群よりもはるかに古く、現存するキリシタン礼拝堂の中で日本最古のものと思われる。
(2)この礼拝堂がある土地が当時の岡藩筆頭家老古田氏の土地であったと思われること
(3)家老古田重治そのものが、ヨハネ・ディダーゴという洗礼名を持つキリシタンであったと言われていること。
(4)古田重治は、歴史上では絶えたとされている茶人古田織部の直系子孫であること
(5)大阪夏の陣では徳川に加担した中川家であったが、なぜか、豊臣と共に大阪城に籠城していた、いわば敵方に与したカトリックの神父を匿っていたこと
(6)最大で7人の神父を匿っていたこと
(7)この礼拝堂の位置が、岡藩の家老級の武家屋敷の奥まった場所にあること
(8)江戸時代の絵図面には、この礼拝堂を見張るための見張り所が5箇所あったこと。
家老古田重治がここに神父を匿ったことは、「日本切支丹宗門史」、「日本西教史」に書かれている。他藩では神父が追い立てられて長崎に逃げたにもかかわらず、岡藩ではこのように家老自らが神父を匿ったため、豊後で最も遅くまで神父が存在した。外見は五角形であり、ゴシック様式の教会の形に酷似している。当時のイエズス会巡察使ヴァリニャーノは、「日本国内における教会その他の建築物は、すべて西洋風に造るように」と各宣教師に命じているため、それに従って宣教師がデザインを指導しながら掘らせたものかもしれない。
竹田の城下町にはここと同じように五角形をした稲荷が多く見られるが、これらには共通点がある。その共通点とは、
(1)五角形洞窟の中に祭壇らしき彫りこみがあること
(2)横に集会所的な大きな洞窟が別に併設されていること
(3)水が湧いていること
の3点が挙げられる。(特に水が湧いていることは、キリスト教の儀式や祭礼に用いられた可能性が高く、2014年7月7日に竹田を来訪されたバチカン日本大使館のジョゼフ・チェノットウ特命全権大使も非常に強い興味を示されていた。)
(県指定文化財)
殿町洞窟礼拝堂とは谷を一つ越えた場所にある。稲荷と言っても実際に稲荷が祀られたのは、ごく最近のことで平成8~9年のことである。それまでは何も祀られていなかった。ここは本来、古田氏が筆頭家老になる前の老職「中川平右衛門」の下屋敷であったことが絵図面に書かれている。中川平右衛門は、初代藩主である中川秀成公に伴って大阪茨木から播州三木を経て岡藩に入封した重臣中の重臣であり、茨木時代にキリシタンとなっていた可能性もある。ここがキリシタン礼拝堂の一つであったとすれば、それは中川平右衛門のプライベートな礼拝堂であったことになる。城下町にはこのような五角形の稲荷もしくは他の神々を祀る洞窟がいくつも存在するが、ここは五角形の上にもう一つ長方形の掘りこみがあり、そこには江戸時代のものと思われる知恵の輪を組み合わせたような可動式の釘(一方は岩に打ち込まれ、もう一方は自由に可動)が打たれている。かつて、その先端に何があったのかは全くの謎である。殿町洞窟礼拝堂のように、集会所的な大きな洞窟が4箇所も併設されており、もちろん水も湧いている。久戸という地名はキリシタンが多く住んでいたからだとも言われている。キリスト→クルスト→クドと訛ったのではないかとも言われる。周囲を尾根に囲まれた谷の一番奥であり、ここが本当に礼拝堂であったならば、部外者の侵入を容易に拒み、心おきなく信仰に没頭することができたのではないだろうか。
(文化財指定なし 個人所有)
三代藩主から八代藩主の間にここで処刑されたキリシタンは44名(後年ではキリシタン以外の一般の罪人もここで処刑)にのぼり、その中には女、こどもも含まれる(北村清士著 大分県の切支丹史料より)。キリシタン信者の数に比較すると、その割合は低く、臼杵などの他藩に比較しても一桁少ない。現地には「南無阿弥陀仏」と「南無妙法蓮華経」と刻まれた供養塔と「無阿」の二文字だけの供養塔が建てられている。「無阿」と刻まれたものは、本来、南無阿弥陀仏と刻まれていた供養塔が水害で流されたため、その残欠を拾いあげて再びここに建てたものだと言われている。いずれも同時期に藩主縁の寺によって建立されていることは全国的にも珍しい。キリシタンが多い土地柄であることを徳川幕府に察知されていただけに、最低限であれキリシタンを弾圧しないわけにはいかなかったのではないだろうか。一番右の南無妙法蓮華経の文字の中で特に「華」という文字はオメガ(Ω)に見えるという説、また、「十」が隠されているという説があるが、すべては謎である。
(市指定史跡 竹田市所有地)
江戸時代、現在の竹田駅前郵便局と旧日本生命ビルの間に「垂水屋」という豪商がいた。垂水屋は当時の乙名(おとな)という役職を藩から与えられており、今でいうところの自治会長的な存在であった。藩からの信頼も厚く、岡藩を経済的にも支えていた。その垂水屋で踏絵を行っていた時に事件は起こった。あまりの人数の多さに床が抜けてしまい、役人が転がり落ちたところに地下室があり、そこにマリア像(一説にはマリア聖画)があったというものだ。主人の平兵衛は、現行犯として長崎に送られ、帰らぬ人なった。ただ、この近所にも地下室を持つ商家は何軒もあったのだが、役人がそれらを調査しなかったのはなぜだろうか。他に逮捕者が出ることを恐れたとでもいうのだろうか。画像は、この垂水屋の斜め前に今も残る商家の地下室だが、ここも相当に古い。この商家は以前、もう一つの地下室を所有していたという。そこは20人ほどの人間がダンスをしていたというほど広かったようだ。どんな目的で作られた地下室だったのだろうか。今も城下町には古い地下室を持つ商家が何軒も残っている。(その後の調査によると、垂水屋は昭和20年までキリシタンを続けたと考えられる。)
(個人所有)
城下町を遠く離れた山間部の深い谷に残されている。地名が籠目というが、籠目とは言い換えればイスラエル(ユダヤ)の国旗に描かれているダビデの紋章のことである。地名からしても実に意味深長である。ここに遺されたT十字はINRIの文字は無いが、表面にもう一つ別の十字が浮き彫りにされている。また、このT十字の前に立っている石像も謎としかいいようがないが、そのいでたちと顔つきは日本人とは思えない。古代ギリシャ戦士か古代ローマ戦士のようにも見える。イタリア人宣教師の布教の足跡ではないかという説がある。
(文化財指定なし 自治会所有)
竹田市内には異相地蔵が多数見られるが、これはそのうちの一つ。胸の前で手をアルファ状に組んでおり、明らかに一般の仏教式の地蔵とは様相を異にする。この地蔵の周囲には俗にいうキリシタン墓と思われる墓石が連なっていることから、この異相地蔵も隠れキリシタンと関連があるのではないかと考えられている。ここから数キロ離れた場所にキリシタン集団墓地がある。竹田市内には多くのキリシタン墓地が存在するが、この墓地に見られる墓石には多数の十、T、キ、井という文字記号が彫られている。また、この墓地の所有者は江戸時代の大庄屋だが、不思議なことに江戸期に建てられていた屋敷の軒瓦にSAtOというアルファベットが彫られている。しかもなぜかtだけが小文字であり、それを十字に見立てたのではないかとする説もあるが、すべては謎である。
(文化財指定なし 個人所有)
城下町を取り囲む山の尾根には、無数のキリシタン墓が存在する。この地蔵はそんな集団墓地の中にある。これが聖母マリアだと断定できるものは何も無いが、普通の地蔵とは明らかに違っている。この土地の所有者が代々に渡ってキリシタンであったことが明らかであることと、周囲にキリシタン墓が圧倒的に多いことから、聖母マリアに見立てられたのではないかと考えられている。
(文化財指定なし 個人所有)
岡藩中川家の替紋は中川クルスという十字家紋である。これにはイエズス会の紋章であるアルファベットのI、H、Sが巧みに隠されていると指摘する研究者もいるが、もちろんそれを裏付ける史料はない。ただ、この藩主の家紋に呼応するかのように、家臣団には同じように十字をあしらった家が非常に多い。それらの家臣団は摂津茨木から藩主とともに岡藩に入ってきた者が大部分である。旧士族の或る方に言わせれば、「かつて藩士は全員がキリシタンだった」というほどである。この家臣団の家紋の中には大阪能勢から来た能勢クルスも含まれている。
(文化財指定なし)
岡城大手門上り口から延々と連なるカマボコ石。これが、いつ、誰が、何のために作ったのかは全くの謎である。しかし、この形はヨーロッパ(特に南欧)のクリスチャンの墓石と大きさ、形が同じことから、岡城とキリシタンに関係するのではないかと考えられている。中には「干」または「井」に見てとれる記号が彫られている。これを変形十字ではないかという説もあるが、立証する術は無い。ただ、実際に禁教以前に天草や島原で亡くなったキリシタンの墓はこれと全く同じ形であり、中にはイエズス会の紋章であるIHSを彫ったものまであることから、キリシタンとの関連性を指摘する声は後を絶たない。
スペインにある世界遺産都市「クエンカ」の大聖堂下の坂道(カノニゴス通り)には、このカマボコ石が延々と連なっており、しかも岡城大手門に向かう坂道と見分けがつかないほど酷似している。またこのカマボコ石はイタリアでも見られる。
(文化財指定なし)
江戸末期の安政年間、禅宗の寺である英雄寺に門徒が持ち込んだ厨子の台座に隠されていたもの。背中には見事な十字が浮き彫りになっている。江戸期を通じて隠し持っていたものと思われる。ちなみに英雄寺は藩主縁の菩提寺の一つである。
(文化財指定なし 英雄寺所蔵)
本来は、岡藩家老古田家の敷地内にあったもの。織部灯籠と隠れキリシタンの関連性は賛否両論あるためにキリシタン遺物だと断定はできないが、日本で唯一、生き残った古田家男系の家に遺されていた点では興味深く、大きな価値がある。扉に×が左右に刻まれた石製祠も一緒に置かれていたことと、古田家がキリシタンであったことから、これらもまたキリシタン遺物ではないかと考えられている。以前、祠の中には何が置かれていたのだろうか。同じ織部灯籠は歴史資料館の傍にある旧竹田荘の庭にもある。
(竹田市立歴史資料館蔵)
岡藩主の菩提寺である碧雲寺の庭に置かれている手水鉢。本来は岡城の本丸に置かれていたもの。バテレンもしくは聖母マリアが浮き彫りにされている。風化が激しいため、バテレンなのか聖母マリアなのかは判然としないが、マントのような衣服を着た人物が手を合わせている姿が浮き彫りにされている。このような手水鉢が藩主の菩提寺に残されているということはどのような意味を含んでいるのだろうか。さらに謎が膨らんでいく。
おたまや公園は歴代藩主の墓地であるが、その藩主の墓の周囲をキリシタンであったと考えられている者の墓石が取り囲んでいる。それらは古いものばかりではなく、禁教からかなり後に没した家臣団の墓も多い。十字を彫ったものや、「帰空」、「赤心」などの戒名を持つものがある。中でも灯籠の笠の裏側に大きくダイヤ十字が彫られたものがいくつもあり、裏返して初めて発見されたもの。藩主が反キリシタンであったなら、このような灯籠や墓が藩主の墓石の周囲を取り囲むことなどあり得ないのではないだろうか。
おたまや公園内に入って左端に2基のカマボコ型墓石がある。戒名や没年月日が一切、彫られていないために誰の墓石なのかは全くの不明である。だが、藩主の墓と同じ敷地内にあることから、或いは初代藩主である中川秀成公と正室虎姫のキリシタン墓ではないかと言う研究者がいるが確証はない。秀成公については洗礼の記録が見当たらないので、キリシタンであったと断言できないが、洗礼こそ受けていなくとも内心はキリシタンに傾倒していたことは十分に考えられることを連想させる謎のカマボコ型墓石。
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