第3期 中川氏の時代
秀成公岡藩入封中川クルスの謎岡城とカマボコ石の謎殿町洞窟礼拝堂と家老古田氏の謎
徳川幕府の禁教令と踏み絵の謎踏み絵床抜け事件と商家地下礼拝堂の謎岡藩におけるキリシタンの殉教
INDEX
秀成公岡藩入封

志賀親次が岡城を去ってから、岡藩には藩主不在の期間がありました。そこに播州三木(現:兵庫県三木市)から新しい藩主として入ってきたのが、中川秀成でした。元々、中川家は大阪摂津茨木城主(現:大阪府茨木市)でしたが、摂津地方はザビエルが鹿児島に上陸して京都に行く途中に通過したところであり、キリスト教布教初期に多くの武将がキリスト教のもたらす南蛮文化に強い影響を受けた地方です。中川秀成の父である清秀はキリシタン大名「高山右近」とは従兄弟、キリシタンであったとも言われる茶人大名「古田織部」とは義理の兄弟であったがゆえに、キリスト教は身近なものであったことでしょう。秀成については明確な洗礼の記録がないためにキリシタンであったかどうかは不明(昭和36年に行われた「中側秀成公350周年祭典誌」には天成13年(1585年)に兄秀政と共に高槻の教会で洗礼を受けたと記録されている。)ですが、実際は兄弟揃って入信していたとしても不思議ではありません。ただ、秀成が布教に寛容であったことは確かなようで、1604年にイエズス会が岡藩内(現在の豊後大野市朝地町)に聖堂を建設し、神父が布教する事を許可しています。志賀親次の時代には既にキリシタンが多くいたため、中川氏がキリスト教に寛大であったことはキリシタンにとっては安心だったのではないでしょうか。

 

現在、城下町を中心に残されているキリシタン遺物の大部分は中川氏時代のものと考えられています。竹田のキリシタン遺物の特徴として、サンチャゴの鐘のように、大きな物が多いことが特徴です。逆に発掘調査をしたことがないためか、小さな十字架や聖像、あるいはメダイが残っていません。では、なぜそのような大きな遺物が破壊されずに残っているのでしょうか。サンチャゴの鐘と聖ヤコブ石像は、明治4年に城を取り壊すまで城の中(西の丸の土蔵という説が有力)に隠されていたようです。もし、幕府に見つかれば藩は取り潰される危険性を持っていましたが、それを承知の上で城の中に隠したことは、正に『隠しキリシタン』と言えるのではないでしょうか。サンチャゴの鐘のようなキリシタンベルは国内に4個残っていますが、その中でもサンチャゴの鐘は最大です。また、聖ヤコブ石像については国内で竹田だけにしかありません。

 

聖ヤコブ(ヤコボ)をポルトガル語で発音するとサンチャゴになることから、聖ヤコブ石像はサンチャゴの鐘とセットで城内にあったとする仮説があります。ヤコブはスペインの軍神であったことから、これにあやかって中川氏も聖ヤコブ石像を中川家の守り神としたのかもしれません。(石像が聖ヤコブであると証明する資料がないため、あくまでも伝聖ヤコブ石像とします。)

中川クルスの謎

藩主中川家には二つの家紋があります。通常の家紋は「抱き柏」と言われる柏の葉をあしらったものですが、もう一つの家紋は中川クルスと呼ばれているものです。この家紋の由来は諸説ありますが、これだと断言できるものはありません。イエズス会の紋章はアルファベットのIHSですが、中川クルスにはこのIHSが巧妙に隠されているのではないかという研究者もいます。三代藩主久清公の時代に中川クルスにはこのHISが巧妙に隠されているのではないかという研究者もいますが証拠はありません。中川家は、幕府から、「この家紋は十字ではないか」ととがめられたために外側にもう一つ○を加えて、「この家紋は馬の轡(くつわ)を模した家紋である」と弁明したようです。そのために別名を轡紋とも言います。中川家臣団にはこのように十字をあしらった家紋を持つ家が多いのが岡藩の大きな特徴の一つです。

岡城とカマボコ石の謎

岡城の大手門には通称カマボコ石と呼ばれる石塁が城の上に向かって延々と置かれています。ただ、これに関する一切の史料は無いために偶然なのかどうかわかりませんが、カマボコ石はヨーロッパのクリスチャンの墓石と同じ形をしているところが興味をそそります。カマボコ石は岡城だけではなく、市内の寺院や藩主の墓地、庄屋屋敷などにも見られますが、誰が何のために設置したのかはまったくの謎ですが、ヨーロッパを思わせるデザインです。

実際に、スペイン、イタリアには同じものが数多く残っており、岡城築城当時の南蛮人宣教師との関連を想像させてくれます。

殿町洞窟礼拝堂と家老古田氏の謎

竹田の城下町に建物の教会はありませんでした。その代わり、元和年間の初期に岩を人間の手で掘った洞窟礼拝堂があります。自然洞窟を利用した礼拝堂は全国にありますが、完全に人工的に掘られた洞窟礼拝堂は全国で竹田市だけにしかありません。ここには最も多い時期で7人以上の宣教師が隠れ住んだと言われています。しかもこれらの宣教師を匿ったのは、ヨハネ・ディダーゴ(ディエゴのまちがいか?)の洗礼名を持つ家老「古田重治」であるとされています。古田重治は茶人大名古田織部の末裔でもあり、既に禁教の世となっていた時代に筆頭家老自らが宣教師を匿ったというエピソードは竹田ならではのものです。やはり、藩主が知っての上での隠しキリシタンだったのでしょうか。なお、この洞窟と同形の洞窟が稲荷として城下町の各所に点在して残っています。これらには殿町洞窟礼拝堂と共通する一定の法則が見受けられます。まず、祭壇らしき彫り込みのある五角形洞窟、次に隣接して大きな集会所的な洞窟があること、三番目は湧き水が湧いていることです。特に湧き水はキリシタンの儀式に不可欠だったと考えられています。殿町洞窟礼拝堂だけが文化財指定を受けていますが、これ以外の稲荷洞窟も同年代に掘られたものと推測され、三つの条件が共通していることから、目的は殿町洞窟礼拝堂と同じだったのかもしれません。

レオンパジェス著「日本切支丹宗門史」に書かれている洞窟がここだと断定はできませんが、少くとも1617年には竹田の洞窟に宣教師が隠れて布教を続けていたようです。

徳川幕府の禁教令と踏み絵の謎

岡藩の踏み絵は、三代藩主久清公の時代に始まりました。ただ、開始時期は幕府の開始命令より30年以上も遅いのです。遅れた理由は判然としませんが、信者に踏み絵をさせたくなかったのではないかとする説があります。久清公には、夏姫という娘がいましたが、彼女が病気で亡くなった時、岡城には連れて帰らず、神奈川県の鎌倉市に東渓院という位牌党を建てて、そこに娘を祠りました。鎌倉を選んだ理由は定かではありませんが、この寺は鎌倉のキリシタンが集まる寺だったと言われています。また、四代目の久恒公の時には全国で唯一、踏み絵のレプリカを長崎奉行所に無断で作製して領民に踏ませたため、これを厳しくとがめられた経緯があります。事の真意はわかりませんが、これもキリシタン保護と禁教に対する抵抗だったのでしょうか。踏絵の会場であった大庄屋宅では、実際に踏絵を踏まなくても許されたと代々。語りつがれているようです。

踏み絵床抜け事件と商家地下礼拝堂の謎

岡藩には踏み絵にまつわる珍しい事件が実際にありました。1738年の事、垂水屋という商家に大勢の人が集まって踏み絵を行っている最中に床が抜けて役人もろとも下に転げ落ちました。すると、そこには地下室があって、奥の祭壇にはマリア像(聖母マリアの聖画とも言われている)があったために、その商家の主人が長崎送りになったという事件です。禁教令から100年以上経った時代に藩の信用があった大店でこのような事件があったことには驚きです。今も城下町の商家には地下室が残っている家が何軒もあります。どれもかなり古いものですから、あるいは垂水屋と同年代に同じ目的で作られたのかもしれません。

岡藩におけるキリシタンの殉教

藩主がキリシタンに寛容だったとはいえ、やはり徳川幕府の禁教令に反対することはできなかったので、岡藩でも殉教者は出ています。ただし、臼杵など近隣の他藩に比較すると、その数は一桁少ないのです。信者数の割合から考えると、見せしめのために最低限の弾圧にとどめたようにも思えます。竹田から長崎に送られた信者もいますが、竹田で殉教したキリシタンは鏡の処刑場跡で処刑されました。今は「南無妙法蓮華経」と「南無阿弥陀仏」の2本の仏教式の供養塔が当時の殉教の様子を偲ばせます。ここでは三代から八代藩主の間に44名が処刑されており、記録では最後に殉教した信者は1745年と思われます。全国でも珍しい市所有の処刑場跡で、市の指定史跡になっています。

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