INRIとは、『ユダヤ人の王ナザレのイエス』の略のことですが、この石碑自体は墓石ではないようです。それは、この地方の豪族であったルカスこと朽網氏が「教会を造り、死者を葬る地所を垣で囲って、その中央に石の大きな十字架を立て、自分が死んだらその十字架の下に埋葬せよ」と家族、家臣に命じた書簡が残っていることから、このINRI石碑はルカスの墓の上に立てられた石製十字架の先端に取り付けられていたものである可能性があります。本来、この石碑は現在地よりも50mほど山際の通称『梅墓』(または五十手墓地)で50~60年前に発見されたものですが、未だ発掘を行ったことはありません。したがって、梅墓の発掘を実施すれば、そこにはルカスが副葬品とともに眠っていることも考えられます。このINRIの文字が刻まれた石製T十字は、日本国内において、ここにしかないと言われる極めて貴重なキリシタン遺物です。(現物は直入町原(はる))
(大分県指定史跡)
国内に4つ現存すると言われるキリシタンベルの中でも重量108kgと最大級。1612年 HOSPITAL SANTIAGOの文字と十字が鐘の表面に浮き彫りにされている。本来は、長崎のサンチャゴ病院付属教会にあったものと考えられているが、その鐘がどのような理由と経路で竹田にやってきたのか、諸説あるものの断定できるものはない。ただ、その中で、この鐘を所有していたのは、天正少年使節団に随行してヨーロッパに渡航したイエズス会神父であるメスキータ神父と言われています。この鐘は、明治4年に城を取り壊す際に発見されたので、江戸期を通じて城の中に隠されていたことになる。本来は、岡城の敷地の中でも最も深い清水谷の観音堂に隠してあったものを、三代藩主「中川久清公」の時代に西の丸を造営、そこの不浄蔵に隠して明治を迎えたと考えられている。発見後は中川神社の所有となり、長く中川神社に保管されていたが、現在は市立歴史資料館に展示している。2012年はこの鐘の製造からちょうど400年にあたることから、岡藩城下町400年祭を開催して、レプリカを製作した。市立歴史資料館の入り口に置かれており、誰でも自由に鳴らすことができる。
Copyright (c) 2014 TAKETA-CHRISTIAN All Right Reserved.