第1期 朽網氏の時代
竹田キリシタン創世期から日本八大布教地への発展400年前の宣教師を癒した日本一の炭酸泉朽網氏の滅亡
INDEX
竹田キリシタン創世期から日本八大布教地への発展

大友宗麟がフランシスコ・ザビエルを豊後府内に招いた2年後の1553年には朽網地方(現在の竹田市直入町と久住町の境)に宣教師やイルマン(修道士)が訪れ、キリスト教の布教が始まります。当時の朽網山野城主朽網宗策(一説には、「老人」とされていることと、年齢から推定して、宗策の父である鑑康ではないかとの説もあるが明らかではない。)は、自らをルカスと名乗り、家族、家臣、260名を入信させ、翌1554年には豊後で初の教会を建てました。ルイス・フロイスが書き残した「日本史」には、その教会の美しさを絶賛する様子が書かれています。この朽網氏の熱心な布教への協力があって、朽網地方はキリスト教日本八大布教地にまで発展します。

400年前の宣教師を癒した日本一の炭酸泉

朽網地方は、長崎から豊後府内までを結ぶ、いわゆるキリシタンロードの途中にあったため、多くの宣教師、イルマンがここに立ち寄った記録があります。その理由は史料がないために明らかではありませんが、まず、最初に考えられるのは温泉でしょう。朽網という地名は現在では使われておらず、長湯温泉という名で知られていますが、この長湯温泉は「日本一の炭酸泉」です。宣教師たちは、自らの旅の疲れを炭酸泉で癒すために朽網に必ずといっていいほど立ち寄ったのではないでしょうか。言わば長湯温泉は、400年前の宣教師を癒したキリシタンの湯です。二番目の理由は、温泉を使った病気の治療です。ルイス・デ・アルメイダをはじめとして宣教師たちが炭酸泉で外傷、皮膚病を治療した記録が残っています。また、特に豊後では聖水による治療が多かったことも記録として残されているため、聖水の成分は定かではありませんが、現在の長湯温泉の温泉水が飲用に適していることから、既に400年以上前には、炭酸泉を飲用させたのではないかとも推測されています。朽網には長崎平戸にあったと思われる生月神社と書かれた、顔が無く頭の被り物に十字が彫られた木製坐像があります。これは、破壊を免れるため、平戸から宣教師の手によって持ち込まれたのではないかと考えられています。

朽網氏の滅亡

多くの宣教師とイルマンが立ち寄り、常に信者300人を保っていた日本八大布教地「朽網」にもキリシタン苦難の時代がやってきます。主君である大友氏と薩摩島津氏との戦において薩摩に降伏した朽網氏は、一度は逃亡を図りますが、結果的に主君大友義統の追っ手から逃れられずに自害します。そのために、庇護者を失った朽網のキリシタンは急速に勢いがなくなり、やがて、30年以上続いた日本八大布教地「朽網」に代わって、岡領内のキリスト教信仰は、志賀氏の岡城がある竹田地方が急激に勢いを増すことになります。今も直入町原に残されたINRI石碑が発見された場所には、ルカスとともに貴重なキリシタン遺物が眠っているかもしれません。