意外に知られていませんが、志賀家最後の岡城主であった志賀
宗麟は嫡男である義統よりも、外孫である親次に自分の家督を継がせようと思ったほどの可愛がりようでした。それほどに親次は武勇に優れ、キリシタンとしての信仰も宗麟が認めるほどのものだったのです。しかし、親次の家族をはじめとする周囲の反キリシタン感情は非常に激しいものでした。それでも、親次は「例え家督を返上しようともキリシタンは棄てない」と断言して妻と共に信仰を守ったのです。また、岡城下にキリスト教を広めるために、レイマン神父に来遊を請いました。その結果、1585年には岡藩内で6,000人から8,000人が洗礼を受け、さらに30,000人が洗礼を受けようとしていたことが宣教師の書簡に残されています。翌1586年には新たに15,000人が洗礼を受けたため、当時の岡藩は豊後最大の信者数となりました。当時の人口が約4万5千人と考えられていますので、洗礼待ちの人までを含むと、80~85%の人々がキリシタンもしくは、キリシタンになることを願っていたことになります。大友宗麟のキリシタン保護政策と相まって、しばらくの間、豊後はキリシタンにとっての楽園と呼べる時代が続きます。
薩摩島津氏との豊薩戦争では、わずか1,000人で30,000人以上の薩摩軍を退け、太閤秀吉から天正の楠正成とまで絶賛された親次でしたが、その翌年1587年に突然の伴天連追放令が出され、親次のキリシタン信仰にも暗雲が立ち込め始めます。それでも、豊後国内の宣教師が次々と追放される中、親次はイタリア人のナバーロ神父を岡藩で匿いながら信仰を保ちました。親次が失脚することになるのは秀吉の朝鮮出兵でした。大友宗麟の嫡男「義統」に従って朝鮮の役に参戦した親次でしたが、誤った情報を基に撤退を義統に進言した結果、義統と共に無断で戦場を離れることとなり、これが秀吉の逆鱗に触れたのです。(一説には、第三者が親次を失脚させようとした罠という話もあるが真偽は不明)さすがの親次も、この時ばかりは秀吉の命令に対して如何ともしがたく、やむなく多くのキリシタンを残して岡城を去ることとなります。ルイス・フロイスが書いた「日本史」で、親次に関する記述はここで終わっています。 その後の親次は、日田(大分県日田市)の代官を務めた後、福島正則、小早川秀秋、細川忠興に仕えた記録があります。
ところが、どこが終焉の地なのかは400年間全くの謎でした。それが、平成25年の秋、思わぬところから竹田市に情報をいただき、親次の墓が山口県宇部市にあることが判明しました。この発見を基に、親次が死ぬまでキリシタンを守り通したのか、そうでなかったのかという謎を調査する必要がありますが、いずれにせよ、岡藩で大勢のキリシタンが信仰を守ることができたのは、紛れも無くドン・パウロ志賀親次のおかげと言っていいでしょう。ただ、残念なことに宣教師から賜った数多くの聖像、聖画、信心道具のいずれもまったく残っていないことが惜しまれます。それらは、今も岡城の地中に眠っているかもしれません。親次の子孫は各地に散らばりましたが、姪である清田幾知が細川ガラシャ亡き後に細川志興の妻となっている。
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